天野月子 / "A MOON CHILD IN THE SKY"


以前から気になっていた天野月子嬢の1年8ヶ月ぶりとなる4thアルバム。

色々な場所でよく名前を目にするも実は一曲とて聴いたことがなかったのだけど、今回のアルバムは『ザ・ロック・アルバム』をテーマにし、更にあの美しいジャケットを見せられたら聞かないわけにはいかないという事で初聴きしてみた。

聞いてみた印象としては、今回のアルバムのジャケットのイメージ通りにゴスっぽいというか…ヴィジュアル系風味で個人的には嫌いじゃない、むしろ好きな音。

メタル要素とポップさを融合させた曲調や、要所要所に多用されているキーボードのせいかもしれないが、個人的に音的なイメージとしてはJanne Da Arcを髣髴とさせる。

とはいえ天野月子嬢の独特な詩の世界観や、透明感がありながらも声量を誇る声によりそこまで似てるとは思わないけれど。

独特の声質や世界観を持ちながらロック的な要素を持つ椎名林檎嬢を好きな人なら受け入れられるのではないでしょうか。

アルバムを通して全体的にクオリティは高いのだけど、個人的には『花冠』という曲が大変ツボにはまった。

ピアノとストリングスのみで構成された曲に囁きかける様な月子嬢のファルセットが重ねられ進行する静かな曲調かと思いきや、中盤からバンドサウンドが加えられていく…ハードなサウンドでありながら哀愁を感じさせる見事な曲。

JILSやKreis系の曲が好きな人は多分気に入ると思われます。

この人はポップな楽曲よりもバラードのようにしっとりと歌い上げるような曲調の方が声を活かせるのではないかなと思う…あくまで個人的な意見だけど。

機会があったら過去の作品群も聞いてみたいとは思えるようなアーティストですた。

ガムシャラモラトリアム


『人生楽ありゃ苦もあるさ』と水戸の御老公の主題歌でも歌われている様に、良い事と悪い事はバランス良く配分されているものだと最近思う。

少し前を振り返ると自分にとって喜ばしくない状況が続いていたが、最近は自分の周囲に嬉しいニュースが広がっている。

とはいえ自分自身に何か良いニュースがあったという訳ではないが、自分自身がお世話になっている方々についての嬉しい知らせが舞い降りているというか。

僕の自慢の兄貴(not血縁です)が大学院試験に合格したり、何年も付き合いがある友人と、高校時代にお世話になった部活の先輩が共に来月挙式することになったり。

直接的に僕自身の事ではないにせよ、自分の親しい人々に幸せが届く事をとても嬉しく思う。

特に兄貴の合格は嬉しい出来事でした、親しいからというのもあるけど、誰よりも一生懸命に努力していたのを見ているから。

これからが本格的なスタートだとは思うけれど、本当におめでとうございます。


そんな姿を見ながら自分自身ももっと頑張らないといけないと、気持ちを奮い立たせる。

今は新しいフィールドに飛び出す前のモラトリアム期間ではあるけれど、それでも時間は止まる事なく流れていて、永遠ではないこの時間はいつかは終る。

卒業論文の締め切りが近づいたり、企業の研修や配属面談に参加したり…そういった直接的な要因のみではなくとも、季節の移り変わりを体感するたびにそう思う。

(ちなみに今年は清涼飲料水『あまざけ』『おしるこ』がバイト先に登場した事で季節の変わり目を感じたりしたよ。)

そうした限られた時間を無駄にしないためにも今は何事にも貪欲に臨んでる。

最も全力で取り組んでいるものはやはり卒業論文を中心とした学業だけど、バイトもそう、遊びもそう、趣味の時間もそう、時間を無駄にしないために何事にもガムシャラ、体力に限界なんてそうそう感じない。

その果てに何か見えれば幸いだなって最近思う。

何かを成す為に努力する事は当然だけど、ガムシャラな努力の果てに何かが見えてくるのもそれはそれで大事なことなのかもと思う。

今までの人生で何かを意識して生きてきた訳ではないけど、その経験一つ一つが僕を構成する要因となっているから…何事も経験あるのみ、努力するのみです。

こうしたとりとめない文章を書きながらも、実は数時間後に控えている個別の卒業論文指導用のレジュメが作成できておらずあっぷあっぷしているところも『あぁ俺らしい』って思う。

【人間が人間として存在する上での身体の持つ責任の根拠】を自分なりに考察してまとめろだなんて…ハードルが高いですよ教授。

そうやって嘆いていたところで何も進展しないので、Franz Ferdinandでも聞いてテンソン上げて頑張ります。


夢見る蝶々


先日は世田谷美術館にて開催されているヴィクトリア・アンド・アルバート美術館所蔵イスラム美術展『宮殿とモスクの至宝展』に行ってきた。

この展覧会はシルクロードを中心として古くから東西交流の重要な役割を果たし、他の文化を受け入れつつ豊かな発展を遂げてきたイスラム圏の文化が産み出した、広範で重層的な美術の概観を、イスラム美術の優れたコレクションで知られるロンドンのV&A美術館の所蔵品によって紹介されている。

どうやらV&A美術館のイスラム美術ギャラリーが新装されるらしく、それによって美術館所蔵の至宝120点が初来日することになったようだ。


とは言うものの僕自身は元々からイスラム美術が大好きだったという訳ではなく、少し異なった理由で本展覧会へと赴いた。

その理由とは、僕は19世紀末にヨーロッパで花開いたアール・ヌーヴォーと呼ばれる装飾美術の傾向が大好きなのだけど、『ウィリアム・モリス』『オーブリー・ビアズリー』『グスタフ・クリムト』『エミール・ガレ』『アントニオ・ガウディ』等だね。

アール・ヌーヴォーの時代を生きた芸術家の中で最も好きな画家である『アルフォンス・ミュシャ』の絵画に、イスラム美術の影響が強く見られるとの事だったのでどれ程のものなんだろうと思い展覧会へに行ってみた次第。

そうでなくともイスラームと言い表される文化体系にはとても興味があるので(最近はもっぱら宗教的な側面を中心としてだけど)、行っていたとは思うのだけど…どの国であるかは問わず歴史的なものが大好きなので。

ちなみにアール・ヌーヴォージャポニズムと呼ばれる日本美術の影響も色濃く見えるので、その点を考えながら見てみると面白いかも。


実際に展覧会を見てみた感想だけれど、今まで見たどの美術体系よりも特殊で魅力的な作品達がたくさんあり、とても素敵な展覧会だった。

先にも述べたように中央アジアを横切るシルクロードによって、中国やアジア諸国を中心としながらもインドや東アフリカ、エジプト等とも交流していたイスラム文化圏だけあり、青磁の陶磁器に代表されるような、現在で言い表すところのコラボレーション作品も素敵なのだけど、何よりも素敵なものがイスラム独自の文化作品だ。

例えばそれはアール・ヌーヴォーに見られるアラベスクと呼ばれる蔓が絡み合うような、複雑な模様や幾何学的な模様などを多用した作品群等だ。

そもそもアラベスクとは「アラビアの、アラビア風」と言う意味で、イスラム教徒が装飾に用いる複雑なデザイン模様の事を指すが、現在ではその影響を受けた西洋で見られるイスラム風の装飾デザインのことを指す事が多い。

またアラベスク美術の他にも、イスラム教徒の礼拝の場のために作られたイスラム美術の品々や、中東のキリスト教徒の礼拝の場のために作られた美術品などもあり楽しめる。


そうした展示物の中でも最も僕自身が心を惹かれた展示物は、イスラム文化圏の中においては聖なる言葉であるアラビア文字をそのまま美術品に組み込んだ作品群だ。

そもそも偶像崇拝を否定するイスラム文化圏においては、アラビア文字のデザインが宗教空間や器物を飾る意匠として発達した。

偶像崇拝を禁止した理由としては、彼らの信ずるもの…つまりは唯一神アッラーが創造せしものを模倣する事は許されないという事であるらしいのだが。

コーランの写本に端を発し、宗教的空間から非宗教的な日常の場にまで浸透し、イスラム美術の重要な装飾意匠となったアラビア文字の美しさは言い表しようが無いものだった。

ガラスの器にアラビア文字のみが蔦の様に絡み合うだけでおりなす美しい模様は、文字というカテゴリーを越えていた。

…もうね、うっとりですよ。


文字だけでこれだけ美しい文様が創り出せるものなのかと、この文字による表現が形を変え絡み合う蔦の様な現在のアラベスクと呼ばれる表現を生み出し、遠い海を越えて様々な芸術家達に影響を与えたんだなぁと。

文化の力、歴史の持つ力ってのは凄いものだなとつくづく感じた。

僕自身、そもそもは吉村作治教授に憧れているような文化・歴史好きなので、本展覧会の様々なイスラム文化イスラムの歴史の断片を見て、うっとりしっぱなしの時間を過ごしていたけど。

これは是非色々な人達に見てもらいたいと思えるような展覧会だった。

文化はまるで蝶々みたい、多彩な要素を抱えてサナギになり、期が熟すとその場から世界へ向けて羽ばたいて、辿り着いた場でまた新たなサナギを宿す。

繋がりながら複雑に絡み合うアラベスク模様のように、生活様式と文化表現も、イスラム文化と他の文化も、それぞれ関係しあいながら成立しているんだよね。

まるで人間関係そのものだ…って人間関係そのものなんだけど。

とにかく観に行ってよかったと思えるような展覧会なので、興味がある方は是非行ってみると良いかと思われます。

観覧代金も他の美術館の特別展示に比べると多少安いと思えるので。


帰りがけにお土産コーナーでイスラム名物の絨毯を発見するも予期せぬ値段に驚いた。

絨毯一枚(と数えるのか?)に560万円とな…!!

僕は目が『(゜д゜)』になってしまったんですが、本物の絨毯ってこんなにするものなのですね(笑)

熊野純彦 / "メルロ=ポンティ ―哲学者は詩人でありうるか?―"


現在の僕自身の主専攻哲学者であるモーリス・メルロ=ポンティの思想に踏み入る為の入門書。

以前、生命倫理に関する書籍で森岡正博氏との共著で熊野純彦氏の文章に興味を持ったのと、本書は『哲学のエッセンス』というシリーズの一冊なのだけど、そのシリーズが理解しやすくて好きなので購入してみた。

読了してみての印象だけど、本書はメルロ=ポンティの主著の一つである『知覚の現象学』を中心に彼の哲学の大枠と魅力を提示し紹介する事に成功している。

本書の特徴としてはその副題にあるように「哲学者は詩人でありうるか」という一風変わった切り口から哲学を解釈しようとしている事だ。

フランス人であるメルロ=ポンティはその多彩な文章表現によって自己の哲学論理を詩的に表現しているが、そうであるが故に詩を受け入れる感性が無ければ彼の哲学の理解は難しい。

僕自身もあまり詩の世界には詳しくはないので、彼の思想の理解に四苦八苦をしている訳ではあるのだけど。

そのようなメルロ=ポンティの思想に踏み込む前にアルチュール・ランボー等の詩を紹介し、詩に対する理解を促す熊野氏の手法や文章構成は読みやすさを考えた面から見ても見事だと思う。

手法や文章構成のみではなく、内容に関してもメルロ=ポンティの思想を万遍なく取り上げており、特に彼の思想の中核をなす現象学的身体論に関する内容については様々な例え話を取り上げ巧みに文章を繋いでいるのでとても読みやすいうえに理解しやすいのではないかと思う。

しかし問題点としては、「生きられる世界」に代表される詩的記述によって表現される言葉は実に美しいが、如何せんメルロ=ポンティが何を言わんとしていたかについては伝わってこない。

メルロ=ポンティの詩的記述等の表現技法ではなく、自己との葛藤により生まれた何か、哲学者の信念たるものが本書には足りない。

良くも悪くも入門書という事で仕方は無いのだけどね。

とはいえ入門書としては内容も良く出来ているものだと思うし、ページ数も100ページ程度と読みやすく、価格も税込み1050円とお手ごろ価格なのでメルロ=ポンティの哲学に少しでも興味がある人にはオススメです。

現代思想の冒険家達』という哲学入門書のシリーズもあるのだけど、このシリーズのメルロ=ポンティはとてもではないが酷い出来の悪さなので…。

ちなみ『現代思想の冒険家達』のジャック・デリダハンナ・アーレントはとてもオススメです。

秋の夜長にはお気に入りの音楽でも聴きながら、色々な書籍を読んでみるのもいいよね。

僕と不良と図書館で


今日は課題と卒業論文のために近所の市立図書館へと赴いた。

この図書館はあまり綺麗でも広くもないけれど、事典などの品揃えが良い為になかなかの人気ぶりでいつも座席が埋まってしまっているのだが、今日はなんとか座れた。

横目に受験生を見ながら、来年は自分自身も新しいスタートラインに立つことを思い出し、なんだか負けられない気分になっていたりもしたり。

哲学思想事典を開きながら気付けば五時間以上経過し、閉館時間が近づいている事にきづいて席を立ったけれど、その間に周囲の顔は誰一人として変わらずで。

自分よりも若い高校生くらいの子もいれば同年代くらいの子もいて、おじいちゃんもいたりして、皆それぞれ何かを黙々とこなしている。

あまりに周囲の景色が変わらないものだから時間が経過している事もあまり感じなかったけれど、確実に時間は未来に向かって動いているんだよね。

先日日記に書いたけど、今何かをしているとしても辿り着ける先なんてものは今は見えない。

でもきっとすべてに一生懸命になっていればきっと見える景色は広がるから。

低い山に登るよりも高い山に登った方がいい景色が見えるはずだから。

そのために僕は今をせいいっぱい生きるんだよ。

そんな事を考えながら図書館を後にして、図書館にてコピーした資料を整理するファイルとと書籍とCDを購入して帰宅。

帰り道、太陽が顔を隠す時間が毎日早くなってきたのを眼で見て、吹き荒ぶ風の肌寒さを感じて、視覚的にも感覚的にも秋の訪れを改めて感じた一日。

それにしてもt.A.T.uの2ndアルバム、日本先行発売盤のジャケットセンスの無さには脱帽もとい絶望、楽曲が良ければ問題はないので評価は後日まで保留するけど、それにしても『R18指定(?)限定DVD付き』とか『オール・アバウト・アス(無修正ビデオ)』はないでしょうに。